RAYの言葉(学校時代の想い出)

8月最後の週、RAYと国学院大学の柴田保之先生の研究室を久しぶりに訪問しました。

柴田先生が介助付きコミュニケーション(指筆談)によりRAYの言葉を通訳して下さいました。

今回の内容は重たい内容で長文ですので、ご了承下さい。(先にこの内容を私のメモの内容でまとめたものをアップしましたが、内容を正確に伝えるべきなのではないかと思い、通訳して頂いたRAYの言葉を録音した内容(行動障害の部分)をそのまま載せています)

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「RAYの言葉」

今日は、僕の学校時代の想い出をあらためて話しておきたいです。

重たい話になりますが、なぜ今話せるかというと最近落ち着いたからです。一度、これはちゃんとした文章としていつでも出せるようにしておきたいからです。

柴田先生はきっと想像つくから逆に怖かったのでしょうが、僕もきちんと話しておきたいという想いが強いのです。

僕達のような「行動障害」があるとされる子供達が一体どんなふうに「行動障害」に陥っていくかを、僕はきちんと整理しておきたいと思っています。

僕は以前から「行動障害」という言い方にはとても疑問を持っていました。

それは、普通に「障害」というときには、必ず生まれつき持っていたり、あるとき病気や怪我により起こってしまった出来事を指すものに対して、「行動障害」というのは僕達が生まれつき持っているものでもないし、病気や怪我により起こったものではないからです。

普通に言えば、それは環境によってそのように追い込まれたものだということになるので、それを「障害」という言葉で、僕達の方にだけくっついているようにみなすのは、本当に間違っていると思います。僕にとって「行動障害」という言葉は、本当に胸をかきむしられるような言葉で、そのことについてどうしてもきちんと話をしておきたかったということになります。

全く何も知らないでこの世に生まれてきた僕達が、一体どうして「行動障害」というような状態に陥るのか、ということについては本当は長い長い説明が必要になると思います。僕達は何かを生まれつき持っていて、それが人との付き合いにおいて、とても難しい「障害」という形になってしまうのは、これはしかたのないことだと思いますが、そのプロセスの中で、僕は僕達に対する何がしかの「行動の抑制」が僕達からそれに対する反発を生み、その反発からどんどん固定化したり拡大化したりして「行動障害」が生まれるものだと思っています。

人間は行動を抑制されると、それに黙って従うか、それに反発するしかないのですが、どれだけ抑制に対して我慢できたとしても、それはやはり限界があって、限界を突破すると、人は必ずその抑制に対して反発するのではないでしょうか?僕は、そのことを身を持って体験してきたので、このことについてきちんと整理しておきたくなったという訳です。

僕が一番つらいと思っているのは、僕達の仲間の中に、この「行動障害」のために、まるで人生を絶望しきっているようなまなざしの仲間が生まれてしまっていることです。だから、僕はこの問題に関しては、一刻の猶予もおくことが出来ないと思っています。

そして、特に、薬の処方によって、完全に自由な人格までも抑圧されてしまう仲間の姿を見ていると、今、この国で起こっている人権侵害の中でもこのことはとても大きなものなのではないかと思うので、どうしてもそのことを伝えたくなりました。

僕達は確かにもともと対人関係は困難なところがあります。そもそも相手の目を見ることが難しいということから始まって、うまく人付き合いが出来ない中で、社会の中に放り出されるわけでは無いですが、社会の中に身を置くことになってしまいます。

普通にあたりまえの子として扱ってくれれば、僕達はそんな大変なことばかりをするわけでは無いのですが、僕達は、どうしてももう1つのハンディとして「衝動的に体が動く」という部分があって、席に座っていなければいけないときに、席から立ち上がってしまうということが本当によくあることです。

幼稚園ぐらいではその位のことは目くじらを立てて叱るということは無いのですが、小学校に入るとどうしても授業中に席を離れることは良くないこととされているので、学年が進むにしたがってそのことに対しての締め付けは厳しくなっていきます。

締め付けといってもただ強制的に座らされるだけなのですが、強制的に座らされるということは僕達にとっては内側からあふれてくる衝動を抑え込まれるわけですから大変なストレスがかかってしまいます。

そのためにその抑えつけられる動きに対して反発をすることが少しずつが始まってしまいます。僕にはとても悲しいことですが、僕達は衝動的に行動を起こしてしまうというハンディがある訳ですから、一旦、相手に対して衝動的に反発をしてしまうと、そのこと自体がコントロールが効かない一つの行動として自分の体にしみついてしまいます。

そこがもし、自分達で簡単にコントロールできるのであれば、こんなに苦しむことは無かったのですが、相手に対する反発もまた衝動の行動の一つとなってしまうと悪循環が始まってしまいます。

例えば、抑えつけられていないときでも相手に対して何か攻撃的なことをするということ起こることがあります。最初は本当に嫌なときしかこういう行動は起こらないのですが、次第に相手が誰であれそういう行動が誘発されるようなことが起こってしまいます。

僕はそういう相手に対する攻撃的な行動を抑える方法として、自分の体に向かうことを一生懸命考え出しました。その行動自体も大変な問題行動なのですが、僕は服を千切ったり、時には自分の手をかんだり、そういう様々な行動をすることによって相手に向かって攻撃的になることをコントロールしてきました。

だから僕はそんなに強く抑え込まれることは少なかったのですが、仲間の中には、そのまま相手に向かっていく行動を抑え込むすべもないままに、その行動を起こしてしまい、さらにもっと抑制されてしまい、そのことで更に衝動的に攻撃的な行動が身についてしまうという悪循環に陥る仲間が出てきます。

丁度、体が大きくなってくる時期と重なってくるので同じ行動をしても僕達にとっては同じ行動が、相手からはもっともっと大きな力で、反発がかえってくるというになる訳で、余計に抑制しようという働きが強くならざるをえなくなっています。先生一人では無理になると二人で抑え込んだり、そのうちこれではもう無理だとなると病院に行って薬をもらうしかないということになっていきます。

こんなことは、本人が言わないと中々分からないことなのですが、思春期の問題とか色々僕達の内面に起こる様々な内側の問題として処理されることが多いですが、それは全て外からやってきたものです。僕達からすると、僕達の側に全て責任を求められることはが苦しいことになります。

ただ、誰もそのことを言っていないのですが、少しずつ「行動障害」は、2次的障害という考えが広がり始めているので、全ての人がこのことに気が付いていないわけでは無いことを知っていますが、大半の先生達は、やはり「行動障害」を私達の方の問題と考えています。学校では大変な事態が進行していると思います。

僕は通所施設に行って、一番驚いたのは、やはり離席ぐらいでは誰も僕達を抑制しようとはしないことです。当たり前と言えば当たり前なのですが、やはり学校には、いくつか決まりがあって、そのきまりを守らなければいけないというのがあまりにも大き過ぎるので、そのために抑制する場面が増えてしまうのでしょうか。

1つずつ抑制する場面が減っていけばいくほど、ゆっくりではありますが僕達の体の中から、衝動的な行動が少しずつ減っていくのが僕にもよく分かりました。僕の場合は相手に向かうのではなく、自分に向かう行動が少しずつ減っていくことで、それが感じられたのですが、自分では中々コントロールできないものでしたが周りがゆったりとした環境になっていくと自分の中の衝動は少しずつ消えていくのを感じています。

本当にこれは環境の問題だったということを日々実感しています。本当に大変だった人も落ち着いていくのも真の当たりにしているので、この問題は本当にゆったりとした環境で僕達を見守るというのが一番だと思うのですが、そのことをまだまだしっかり認識している研究者や学校の先生が少ないので、まだまだ事態は動いているように思えません。

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(介助付きコミュニケーション(指筆談)についての補足)

ぶろぐでも、何度か書いていますが、介助付きコミュニケーションで語られる「障がい者の言葉」についての信用性について、まだ一般的には確立したものとは言えません。

当事者の言葉として社会的に認知されている重度の自閉症の作家東田直樹さんは、この点に関して下記のように述べています。(東田さんは、最初は家族の指筆談で意思を表現されていましたが、現在は自発の文字盤ポインティング、PC入力により表現されています。)

「自閉症者は、話せなければ知的にも重い障害とあるとみられてしまうのです。僕たちがわかっているということさえ、表情や態度で表すことができないからでしょう。…言葉の理解というのは、言葉を表出することや行動とは切り離して考えるべきだと思っていいます。」(「東田くん、どう思う?」P.30より 角川文庫」

また、以前のぶろぐでも書いていますが、科学的見地から、表出が難しい障がい者であっても、例えば、(株)サイバーダインの意思伝達装置などにより、神経から流れる生体電位を計測することにより、内的な意思や言葉があることを証明することが近い将来可能になるであろうと考えられています。

重たい内容でかつ長文に、最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!

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