「広汎性発達障がい」の診断 

先天性胆道拡張症の手術の後は、偏食でやせ気味でしたが、特に身体的には問題も無く、少し歩くのが遅いぐらい順調に育っていきました。

ただ、言葉が遅い、ということは気になっていて、一歳過ぎても、声は出ていても単語が出ず、指差しもありませんでした。笑顔が多く表情が豊かだったので、あまり心配しないようにしていました。

また、3歳から絵も描き始め、親から見てもユニークな絵を色々描いていたので、知的に遅れている気がしませんでした。

本音として「障がい」があることを認めたくない、という気持ちが働いていたのだと思います。

当時、保育ママさんのところに預けて仕事をしていましたが、巡回の保健婦さんから、「目を合わせないので、心配だったら、保健所で見てもらったら」と言われました。保健所でも、「親御さんが心配で無ければ様子を見ましょう」とのことでした。

翌年、保育園で相談すると、「もし気になるのであれば、療育センターに通われてみては?」と言われて、診断前に、週に一回療育に通うことになりました。

保育園に通ってはいましたが、周りのお子さん達の発達とは明らかに違い、周りの母親同士とは、自然と距離を置くようになっていました。

これに対し、療育に通われてる子供の母親同士の交流は、発達のことや育児の苦労を共有することも出来て、療育の情報交換の場として、一息つける、貴重な場でした。

4歳のとき、国立成育医療センターの先生に、「しいて言えば、高機能広汎性発達障がいでしょう」と言われました。(言葉も遅く、こだわりはありましたが、多動や常同行動が無かったこと、他者との交流は乏しいが、穏やかでお絵描きの様子だけを見られての判断だったと思います。)

私は、当時は、きっと療育を頑張れば、治っていくのだろう、と楽観的な気持ちでした。

このためか、RAYの「発達障がい」ということを受容するまでには、数年かかることになります。

「障がいの受容」が出来るまでの間は、可能な限りの情報を集めて勉強し、良かれと思う療育方法を試していくことになりました。

いわゆる、「障がい」を認めたくない、または、仮にあったとしても、きっと、療育によって治癒出来ると信じていた、「あがきの期間」だったように思います。

そして、小学校入学時の「就学時検診」という壁で、現実を突きつけられることになりました。

区立小学校の支援級の入学が決まり、「あがきの期間」は終わることになります。

「ぼくの中のぼく」2004

自分の中に、たくさんの自分がいる絵

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